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「LAから出てヨーコの元に戻れることを目指して」 最初はあれだけ解放感に溢れて、失われた青春を謳歌していたジョンがLAから出たいと懇願するようになるこの流れは、教訓めいたおとぎ話を読むようだ。 しらふで作ったのが「心の壁、愛の橋」だったのだ。アルバム全体に流れるあの透徹感の理由が腑に落ちた。 (ヨーコと復縁せぬまま)NYに戻ってレコーディングを開始する。LAのときと違い、ちゃんとシラフのまま真面目に仕事をしてくれるミュージシャンと共に。 「ヨーコに会いたい、LAから出たい。NYに戻りたい。酒びたりの生活から脱けたい。気づくと心の壁愛の橋を作っていた」 あのアルバムは典型的なメイ・パン期の産物ゆえ、LA録音のイメージを抱いている人は多いのではないか(少なくとも私はそうだった)。これは眼からウロコだった。ジョンは、ヨーコに許してもらえぬまま、せめて物理的にNYに戻ってきたのだ。ロックンロールのアルバムを補足録音したのもそれらのミュージシャンたちとNYでやった作業(要確認)なのだ。 そういえば「スタンド・バイ・ミー」のプロモ・フィルムで、最後にジョンが即興のあいさつ「みんな元気かい。僕はここNYで君にこうして歌ってるよ」と言っていたではないか。 このレコーディングの最後のこまごました部分のオーバーダブ作業を、調整室に招かれて見学した有名ラジオDJの証言。「ビートルズのジョンがそこで歌ってる。そう心で叫び、一気にティーンエイジャーの自分に戻ってしまった」 近年のポールのコンサートの会場もそのとおりだ。どんな業界人も有名ミュージシャンも、一般人と同じ立場、つまり「わあ! すげえ! 生ビートルズが歌ってるんだ!」となる。そこが感動的なのだ。 そのDJは最後にジョンに挨拶して言う「よかったらこのアルバムのプロモとしてスタジオに遊びに来てくれませんか」 そのときのラジオ音声がかかり、元々はこのアルバムの課題は「ナンバー・ナイン・ドリーム」だったことも明かされる。私がジョンのソロで大好きな、このアルバムの一収録曲だが、やはりジョンの中でも重要曲だったのか。 「宣伝が終わってもジョンは残ってくれた」とDJ。 ジョンが天気予報を読み上げたり、政府からの退去命令に抵抗している件などもたっぷり語る様子も音声で紹介される。 「NYが好きだからね。オハイオ追放なら全然OKだけど。オハイオの人、他意はない冗談だからね」という言葉に、北野武の姿をだぶらせ、ジョンの魅力をあらためてリアルに実感させれる。 また「チャップリンが昔レッド・パージで同じ目に遭い、長年経ってからアメリカに戻れた悲劇」をDJが語ると、「そうそう。60歳になってからイエスタデイでちんけな盾をもらうのは嫌だよ」と笑わせる。これは老齢になってからチャップリンがハリウッドで賞をもらったことを指している。「そもそもイエスタデイはポールが書いた曲だっつうの」 そしてDJがバックに流れ始めた曲についてジョンに尋ねる。「この曲のタイトルは?」「scrared(恐怖)だ。書いた時の心境さ。今の僕はとてもハッピーだよ」 あのアルバムのジャケットがどんなつくりだったか、思い出してほしい。 11歳の自分が描いた絵、そして「ジョンの笑顔や面白い顔が、眼の部分だけ、口の部分だけ、いろいろ組み合わせられる」気さくなジョンが戻ってきたつくりだったではないか。 政治色溢れるアルバムと狂気に溢れるオールディーズ集の後に彼が発信したのは、こんなにも透明感に溢れたアルバムだったことは、あらためて体感すべきだ。 ジョンがエルトンと共作し、一緒に吹き込んだヒット曲「What ever」についても語られる。 エルトンが「今度マジソン・スクエア・ガーデンでコンサートをやるから、飛び入りで一緒に歌おうよ」と言ったとき、ジョンは冗談で「1位になったらそうするよ」と答えた。 そしてこの曲は本当にチャート1位になり、ジョンが約束を守らねばならなくなる。 ここで、現在のエルトン・ジョンが証言者として登場。 「そのときの僕のステージ衣装は、たばこの箱か何かで作った小さな水着1丁だった」 当日ジョンはそれを見て驚いてこう言った。「最近はステージ衣装って、みんなこんな感じになっちゃってんの?」 紹介されるそのときの音源と写真。 エルトンが言う。「出演前、ジョンはトイレに行って吐いていたようだ」 「私にとっても、NYにとっても素晴らしい思い出になっている一夜だ。なんといっても、この晩、彼はヨーコの元に戻ったんだからね」 ステージにジョンを招き入れる様子から始まる。エルトンの証言にまた涙が落ちる。「あれほどの歓声を誰かが受けている様子は、私の全人生を通して見たことがない。あのときのことをこうして語るだけでも感無量になってしまうよ。10分間、大歓声と共にNYがオール・スタンディングだったんだ」 ここで現在のヨーコもこう証言する。「MSGが地震のように揺れていたわ」「でも私の知ってる、労働者階級の英雄的な力強いジョンじゃなかった。とてつもなく不安げな内面が私にはわかった」。大歓声の中、ヨーコだけが感知したジョンの深い部分。 ヨーコは楽屋に行って「ジョン、信じられなかったわ」と涙を必死にこらえたと証言する。 彼のいたいけな姿がヨーコの深い部分にも触れたのだ。ジョンは赦されたのだ。そのときの楽屋で二人が語る写真が紹介され、しみじみと見入ってしまう。 ヨーコは「困ったことに自分がジョンの事をまだ愛してることに気づいてしまったの(I thought that it’s too bad that I still love him. )」と回想する。 ヨーコは、ジョンと別居している期間に、古着屋で1920年代あたりの素敵な男性パジャマを購入し、「これが似合う素敵な男性が現れますように」と女性らしいときめきを込めて祈っていたことも明かす。そして、ジョンが戻った時、このパジャマをジョンに着せてみると実にぴったりと似合ったという。 どんな小説家も、これほどロマンチックな物語を書けないだろう。これがドキュメンタリーとは信じられない。 ビートルズが初めてアメリカに上陸しTV番組「エド・サリバン・ショー」に出演したとき、ちょうど「抱きしめたい」が全米1位となっていた。そういった奇跡と同様、もしエルトンとの共作曲がMSGの前に1位になっていなかったら、ジョンはステージにあがることなく、ヨーコの元に戻っていたかも不明だ。まさにビートルズくらいの大きな存在には、常に宇宙も味方するとしか言いようがない。 そして4年の長きにわたる国外退去命令は却下され、ジョンとヨーコはグリーンカードを獲得する。その日に、待望のヨーコとの子ショーンも誕生した。しかもジョンの誕生日である。ジョンの喜びは想像に余りある。 ショーンとの子育ての様子がプラベート映像や音源をまじえて紹介される。 ショーンがサージャント・ペパー収録曲「With a little help from my friends」を可愛く歌い、「これ、僕が大好きな歌。これ歌ってるのは誰? パパ?」「リンゴさ。パパとポールはバックで歌ってるけど」と答えたり、歌詞の間違いを正してやったりしている音声。 ジョン・レノン・アンソロジーに収録されていた(私の大好きな)音源だが、マニアでない限り、この映画で初めて聴いて感動するはずだ。 この音源を公開したヨーコはおそらく、ファンサービスのみならず、ショーンがジョンの遺作「ダブル・ファンタジー」録音直前まで自分の父親が元ビートルズであることを知らなかったという伝説はいささか誇張されすぎであることも、さりげなくほのめかしているのだ。 音楽プロデューサーのジャック・ダグラスが子供を連れたジョンにばったり出くわしてランチを取ったときの思い出を語る。 「イースト・サイドの健康食糧品店でばったり会ったよ。彼は息子の水泳教室に一緒に参加した帰りだったようだ。風貌も声のトーンも歩き方もすべて前とは違っていた…そして何より彼の横には彼の息子がいた(He was totally different, he looked different, his, his tone was different, his step was different. His, son was there.)。彼は私に最近の業界事情を尋ね、直通電話番号をくれて電話をくれと言った。でも私は電話しなかったんだ。彼が、今まで持っていなかった素晴らしいものを手に入れたのがわかったから(He seems to, He seems he got it. Something that he never have before.)。業界の雑事に引き戻したくなかったんだ」 この敏腕プロデューサーは、驚くほど枯れてしまったジョンの姿に、5年のブランクを取り戻して、復帰するのは難しそうに感じたに違いない。 つづく
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| 2011-08-13 05:07
| レヴュー
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